日露戦争の日本海海戦は、艦隊決戦における戦艦の重要性が改めて認識された戦いとなった。大艦巨砲艦艇をいかに多く所有するかで戦争の帰趨が左右される、まさに戦艦は国防の根幹そのものと考えられたのである。
欧州で第二次世界大戦が勃発すると、英仏と独伊の海軍の戦いが始まるが、戦力数からみても英海軍が圧倒的優位にあった。そのため独軍は最初からまともな艦隊決戦は避け、潜水艦(Uボート)を使った通商破壊戦を中心に据えて、大型軍艦は海上輸送船団攻撃や上陸作戦の護衛艦として出撃するのがほとんどであった。そのような情勢ではあったが、主力艦どうしの戦いが無かったわけでなく、ノルウェー沖海戦、マタパン岬沖海戦、ビスマルク追撃戦など、戦艦や巡洋戦艦を中心とした海戦が行われた。これらのうちマタパン岬沖海戦とビスマルク追撃戦では、航空母艦をもたない独伊が制空権を確保出来ずに不利な戦いを強いられて敗北しているが、海戦の勝敗を決したのはあくまでも大型軍艦による砲撃戦であり、航空機は補助的な立ち回りを行ったに過ぎなかった。欧州での海戦は未だ戦艦が主力艦であったのである。
欧州で未だ大艦巨砲による海戦が行われていたころ、日本では航空機を海戦の補助戦力としてでなく、航空母艦を集団で使うことにより、航空機の大編隊をつくり、その量的威力で敵を殲滅するといった革新的な発想が生まれていた。その結果、第一艦隊、第二艦隊にそれぞれ配備されていた空母を新たに第一航空艦隊として編成し、航空戦訓練が重点的に行われるようになったのである。しかし、それでも、海軍の上層部は長年主力として実績のある戦艦による艦隊決戦思想から脱却できず、来るべき米国太平洋艦隊との決戦は、本土に近い海域で、日露戦争の日本海海戦を模範とする漸減邀撃作戦(航空機、潜水艦や水雷戦隊の奇襲等で敵の数を減らしたうえで、戦艦同士の砲撃戦で決着をつける作戦)であるという考えが多数を占めていた。
戦術的にはこの漸減邀撃作戦は、ある程度の戦果が期待できた。しかし、戦略的な見地からみると、圧倒的な米軍相手に例え初戦の決戦で勝利できたとしても、守勢の作戦を続けたのでは、やがてじり貧に陥って、国力に桁違いの強さを持つ米軍に次第に主導権を握られてしまうことになりかねない。 それよりも、積極的に敵の痛いところを続けざまに攻撃し、常に攻勢を持って短期に決着をつけるべきだと主張したのが、連合艦隊最高指令山本五十六長官であった。
山本長官は海軍と軍令部の反対を強引にねじ伏せて、航空母艦を全力投入して空襲により米国太平洋艦隊を壊滅させる「真珠湾攻撃作戦」を押し進めたのである。 そして、6隻の航空母艦による攻撃は、米国太平洋艦隊の戦艦部隊に大打撃を与えることに成功した。 (米国航空母艦を撃ち漏らして目的はすべて成就されたわけではなかったが、大戦果を上げたのには違いない)
さらにマレー沖にて英国戦艦(ビスマルク追撃戦で活躍した)プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスが航行中に陸上基地航空部隊の第十一航空艦隊の一式陸攻の攻撃で沈没。 これは停泊中の艦を攻撃した真珠湾の時と違って、航行中のしかも戦闘態勢にあった戦艦を航空機のみの攻撃で撃沈したはじめての戦果である。
真珠湾攻撃作戦の成功やマレー沖海戦の勝利は、大艦巨砲主義が音をたて崩れ落ち、航空主兵の時代が到来した瞬間といえるものであった。 だが、その事実を真っ先に受け止め、素早く航空母艦を主力とする艦隊を編成したのは、皮肉にも米国太平洋艦隊であり、日本海軍はいまだ大艦巨砲主義から脱却できず、それがやがて、大きな悲劇につながっていくのであった。
航空母艦を集団で使い大量の航空機で敵を殲滅する。それまで、海戦の主役であった戦艦による砲撃戦に代わってこの戦法は事実上海戦の歴史を大きく変えるものであった。
「航空機主導による艦隊決戦」
しかし、海軍が水上艦隊のみで成り立っていた時代はおわり、新しい兵器の潜水艦や航空機が発達するにつれて戦術思想の変更を余儀なくされはじめた。特に第一次世界大戦以後著しい発達を見せた航空機の威力は「制空権下での砲戦艦隊決戦」と云う新しい戦術を生み出すに至るのである。最初は航空戦で制空権を握りその後、雷撃で航行を撹乱させたり、着弾観測等を航空機から行い、砲撃の優位を確保した上で、最後に戦艦を中心とした艦隊決戦で勝敗を決しようという考え方である。