昭和17年6月5日、午前1時30分、ミッドウエー島の北西約45キロから、南雲機動部隊は第一次攻撃隊を発艦させた。また、この攻撃隊と前後して7機の索敵機が
逐次発進していった。しかし、艦隊の東方域を索敵する予定だった、利根の4号機がカタパルトの故障で30分ほど発進が遅れてしまった。
第一次攻撃隊は2時間後ミッドウエー島に到達し、攻撃を開始するが、事前に哨戒で来襲を察知していた米軍は航空機をあらかじめ、上空に避難させており、思うような戦果を挙げることができなかった。第一次攻撃隊の指揮官友永大尉は、「第二次攻撃ノ要アリト認ム」と南雲指令に打電した。
これより先、南雲機動部隊より遙か後方にあった主力本隊の旗艦大和では、米軍の活発な無線をキャッチし、米太平洋艦隊が出動してきてるという情報をつかんでいた。しかし、作戦遂行中は無線封鎖を行っており、機動部隊も「何らかの異変」に気づいているだろうと言う楽観的な観測から、南雲機動部隊には一切通知されなかった。しかし、戦艦と違い、もともと艦橋の低い空母では、無線の傍受能力に劣っていたため、南雲機動部隊は、米軍の動きを全く把握できていなかったのである。
友永大尉から、ミッドウエー島への第二次攻撃の要請が来たとき、南雲機動部隊の各空母では、米機動部隊の出現に備えて、対艦攻撃用の兵装で第二次攻撃隊が待機していた。先に飛ばした索敵機からの敵艦隊発見の報もなく、利根の4号機は未だ索敵線までいっていないが、南雲機動部隊では、居るか居ないのかはっきりしない敵空母よりも、ミッドウエー島の攻撃を優先させることにし、兵装を対艦用から陸上用に換装するよう命じた。この直後、ミッドウエー島から飛び立った米攻撃機が南雲機動部隊を襲ったが、直衛の零戦闘機に阻まれすべて攻撃に失敗している。ようやく、兵装の転換が終了した矢先の午前4時28分、索敵機の利根の4号機から「敵艦隊発見」の報告がもたらされた。そして続報として「敵空母有り」が報じられ、南雲機動部隊司令部は動揺した。
米機動部隊を率いるスプルーアンス少将は、ミッドウエー島からの哨戒機より南雲部隊の発見の報を受けていたが、距離がまだはなれている事と、日本軍がミッドウエー島攻撃部隊を収容する隙を狙って攻撃を加えるべく間を詰めているところだった。しかし、敵の哨戒機(利根の4号機)に発見された為、攻撃を急ぐ必要あるとして、散発であったが、発艦できた攻撃機から逐次攻撃に向かわせた。
南雲機動部隊では、空母飛龍の山口多聞少将より、「現装備(陸上攻撃用兵装)ノママ攻撃機タダチニ発進セシムルヲ正当ト認ル」との打電が南雲指令官の元へ届いた。貴重な時間を再び兵装転換に割く位なら、このまま攻撃して敵空母の甲板を破壊し、作戦能力を失わせるのも大きな戦果となるのである。しかし南雲指令官はこれを却下し、再び兵装を対艦用に転換するよう命じた。司令部は準備が整わないまま攻撃機を発進されれば
間違いなく敵の戦闘機の餌食となると判断し、直衛の戦闘機と第一次攻撃隊を収容し、制空隊を編成し直した上で、攻撃機を発進する方法をとったのである。
攻撃隊の出撃を遅れに遅れさせていた南雲部隊であったが、米軍はそれを待ってくれるはずがなかった。午前6時20分、ついに米攻撃機が南雲機動部隊を襲った。
最初に、南雲部隊を攻撃したのは、空母ホーネットから出撃した雷撃隊で空母赤城を狙ったが、零戦闘機が奮戦し、全機を撃墜した。ついで空母エンタープライズの雷撃機が空母加賀を狙い8本の魚雷を発射したがすべて命中せず、これも零戦闘機に避けられた。さらに25分後、空母ヨークタウンの雷撃部隊が来襲したが直衛の零戦闘機が降りてきて迎撃し、この時点では未だ南雲機動部隊は全くの無傷であった。
米雷撃部隊は優秀なる零戦闘機に阻まれ殆どが壊滅したが、しかしその犠牲は米攻撃隊にとって計り知れない好機会を与えていた。雷撃機を追いかけて上空にあった零戦闘機がすべて低空に降りてきていたため、上空が無防備状態となっていた。そこへ、後続の米急降下爆撃隊がやってきたのである。
「敵編隊本艦直上!」
午前7時20分過ぎ、高度6000メートル上空から空母エンタープライズの艦爆機が空母赤城、加賀をめがけて急降下し、500キロ爆弾が、赤城に2発、加賀に4発、飛行甲板に命中した。同じ頃、空母ヨークタウンの艦爆機が空母蒼龍を襲い、500キロ爆弾を3発命中させた。日本軍の各空母では発艦間際の攻撃機がずらりと並び、しかも二度にわたる兵装転換で陸上攻撃用の爆弾が所々に放置されていたため、次々と誘爆を起こし、たちまち3隻の空母は猛火に包まれ、致命傷となった。この時、南雲指令官は燃え上がる赤城の甲板を艦橋から呆然として眺めていたと言う。
「我今ヨリ航空戦の指揮ヲ取ル」
唯一、生き残った空母飛龍の山口多聞少将は、赤城から軽巡洋艦長良に移った南雲指令官に代わって、米空母攻撃を開始する。まず最初は第一次攻撃隊として小林大尉を隊長に零戦6機、艦爆撃機18機を発進させた。
飛龍の第一次攻撃隊は、米戦闘機の猛攻撃をかいくぐり、空母ヨークタウンに3発の爆弾を命中させた。更に友永大尉を隊長にした第二次攻撃隊の零戦6機、雷撃機10機が攻撃に向かい、無傷の敵空母を発見すると、熾烈な対空砲のなかで雷撃を行い、2本の魚雷を命中させた。しかし、これは実はヨークタウンで、最初の攻撃で被爆したあと、米兵らの猛烈な消火作業で鎮火したばかりを友永大尉が無傷の空母と誤認したのである。たが、ヨークタウンはこの雷撃で致命傷を受け航行不能となった。(翌日、ヨークタウンはハワイまで曳航中、日本軍の潜水艦の攻撃で沈没)
2回の攻撃を終えた飛龍では、小林、友永、両名ともに帰らず、残存機もわずかとなり、山口多聞少将は、第三次攻撃隊は正面攻撃を諦め、薄暮攻撃として、日没まで待つことに決定した。
ところが 、日没まで2時あまりの午後2時03分、それまで孤軍奮戦してきた飛龍に運命の時が来た。空母エンタープライズのマクラスキー少佐の率いる急降下爆撃隊が
現れ、次々と爆弾を投下してきた。飛龍は巧みな操舵で最初の3発はかわしたものの、たて続けに4発の直撃弾をうけて瞬く間に炎上した。この瞬間、南雲機動部隊の空母は作戦能力をすべて喪失した。
南雲機動部隊より遙か後方にあった主力部隊の旗艦大和で、山本五十六最高司令長官は、南雲機動部隊壊滅の報を受けた。艦隊司令部では尚も、機動部隊の残存艦と主力部隊とで夜戦の断行を検討されたが、空母4隻を失った今、すでに勝敗は決していた。山本長官は「天皇陛下には私からお詫び申しあげる」と述べて、ミッドウエー島攻略作戦の中止を6月6日午前零時15分に決定した。